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元曉の三昧と懺悔観
著者 金貞男 ; 佛教大学学術委員会大学院紀要編集委員会
掲載誌 佛教大學大學院紀要
巻号n.34
出版年月日2006.03
ページ291 - 300
出版者佛教大學大學院
出版地京都, 日本 [Kyoto, Japan]
資料の種類期刊論文=Journal Article
言語日文=Japanese
キーワード大乗六情懺悔; 金剛三昧経論; 無生懺; 無生観; 元曉
抄録本稿は元曉(617-686)の『大乗六情懺悔』が三昧を通じた懺悔法であり、具体的に悟りを通じた懺悔であることを考察した。ところで、『大乗六情懺悔』に関する既存の研究をみると、その視点が罪業を持つ存在としての衆生の立場から仏という対象を捉えていく論証が多い。本稿は『大乗六情懺悔』が元曉の著述の中で、特に『金剛三昧経論』との関連性に注目した。本稿の範囲は元曉の三昧と懺悔であり、『大乗六情懺悔』と『金剛三昧経論』の三昧と懺悔観を比較した。このような考察は元曉の実践の特徴の一面を明らかにすることにその意義がある。まず三昧観としては、元曉は『大乗六情懺悔』において三昧の実践として如夢観と如夢三昧を挙げている。特に『金剛三昧経論』によれば、金剛とはその三昧が持つ効用性の意味であり、大乗観は三慧観として述べられている。また存三守一の状態はついに無生忍の境地に至る。このような大乗観は『大乗六情懺悔』の如夢三昧が無生忍に至るのと同じである。もっと具体的にいえば、『大乗六情懺悔』と『金剛三昧経論』の三昧観は無生観である。またそのような無生観は『大乗六情懺悔』には六情の放逸に対する懺悔として現れており、『金剛三昧経論』には金剛三昧に入れば、その定によって罪業が滅すると述べている。つまり、三昧による悟りの懺悔は三昧と懺悔が同じ悟りの現れとして作用するのである。つまるところにいえば、元曉はこのような、三昧と罪業、三昧と悟り、悟りと罪業の関係を『大乗六情懺悔』において現そうとしている。
目次1.問題の所在 291
2.元曉の三昧観 292
3.元曉の懺悔観 295
4.結び 297
ISSN13442422 (P)
ヒット数307
作成日2009.07.17
更新日期2021.01.13



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