網站導覽關於本館諮詢委員會聯絡我們書目提供版權聲明引用本站捐款贊助回首頁
書目佛學著者站內
檢索系統全文專區數位佛典語言教學相關連結
 


加值服務
書目管理
書目匯出
『成唯識宝生論』における法無自性をめぐる論争=Debates on the Concept of dharmanihsvabhava in Dharmapala's Vijnaptimatratasiddhiratnasambhava
作者 那須円照 (著)=Nasu, Ensho (au.)
出處題名 印度學佛教學研究 =Journal of Indian and Buddhist Studies=Indogaku Bukkyōgaku Kenkyū
卷期v.58 n.3 (總號=n.121)
出版日期2010.03
頁次1229 - 1234
出版者日本印度学仏教学会
出版者網址 http://www.jaibs.jp/
出版地東京, 日本 [Tokyo, Japan]
資料類型期刊論文=Journal Article
使用語言英文=English; 日文=Japanese
摘要本論攷では,『唯識二十論』の護法の註釈である『成唯識宝生論』における,法無自性(=法無我)についての,護法(唯識論者)とアビダルマを代表とする実在論者や中観論者との対論を検討して,有の立場と空の立場の中道としての唯識無境という唯識学派の立場を護法が宣揚したことを明らかにする.この法無自性の議論の要点はいくつかある.まず,十二処を実在として人無我の立場のみを主張する実在論者に対して,それらの要素は識所変であると護法は主張する.また,一切法皆空を主張する中観派に対して,護法は,執着の対象(遍計所執性)としての心・心所や見られる対象は実在しないが依他起性としては縁生有であるという立場である.そして,護法は,外界の法は内的アーラヤ識の所変と解し,外界の対象には自性はなく,唯識無境であると説明する.『成唯識論』における伝統的に解される立場と同じく,護法が識体というものの実在性を認めていることが,『成唯識宝生論』でも明らかである.護法は境識倶泯の立場ではない.また,仏陀の認識対象も問題となるが,仏陀は不共法である清浄な自心を認識対象とするが,執着はないのである.仏陀以外の者は,自心を認識対象としても,その自心(A)をまた別の自心(B)が執着の対象とするから,唯識が成り立たなくなってしまうのである.以上,『成唯識宝生論』は『唯識二十論』の論旨に沿って註釈しているが,逐語的な註釈でなく,達意的に,実在論者(アビダルマや勝論派)や中観論者の説を詳しく挙げつつ,適宜論駁していくのである.その結果,対象も識もあるという立場と,対象も識もないという立場を離れた,対象はないが識はあるという護法の立場が明らかにされるのである.今回は,以上の議論の前半の部分を検討した.
ISSN00194344 (P); 18840051 (E)
點閱次數350
建檔日期2015.06.30
更新日期2019.05.02










建議您使用 Chrome, Firefox, Safari(Mac) 瀏覽器能獲得較好的檢索效果,IE不支援本檢索系統。

提示訊息

您即將離開本網站,連結到,此資料庫或電子期刊所提供之全文資源,當遇有網域限制或需付費下載情形時,將可能無法呈現。

修正書目錯誤

請直接於下方表格內刪改修正,填寫完正確資訊後,點擊下方送出鍵即可。
(您的指正將交管理者處理並儘快更正)

序號
543976

查詢歷史
檢索欄位代碼說明
檢索策略瀏覽