|
|
|
|
|
|
国保の源流「定礼」制度創設背景の児童福祉「産子養育」管窺 |
|
|
|
Author |
小山一乘 =Koyama, Kazunori
|
Source |
仏教経済研究=Journal of Buddhist Economic Research=ブッキョウ ケイザイ ケンキュウ
|
Volume | v.48 |
Date | 2019.05 |
Pages | 25 - 48 |
Publisher | 駒澤大學佛教經濟研究所 |
Publisher Url |
https://www.komazawa-u.ac.jp/gakunaisoshiki/kenkyujo/bukkyokeizaiken/
|
Location | 東京, 日本 [Tokyo, Japan] |
Content type | 期刊論文=Journal Article |
Language | 日文=Japanese |
Table of contents | はじめに 25 一 捨子問題及び貧窮産子・間引き問題の史料例 26 1捨子史料 26 ⅰ『古事記』にみえる伊耶那岐命と伊耶那美命との捨子の描写 26 ⅱ松尾芭蕉『野ざらし紀行二』 (一六八四(貞享元)年秋〜翌年四月)にみえる捨子の描写 26 ⅲ飢饉と「徳満寺(真言宗、茨城県利根町) 」の「間引き絵馬」と柳田國男 28 二 捨子対策施策 29 1徳川綱吉の「生類憐れみの令」再評価と赤ちゃんポスト的捨子対策――中央江戸から―― 29 2筑前宗像の山村の大庄屋四人の「捨子防止策の申し出」――山村からの場合―― 30 ⅰ福岡藩「捨子」の禁令再発事態: 「捨子猥りに捨て候儀これあるに付き…その科(とが)軽ろからず候亊」 30 ⅱ一七三六年、郡役所宛捨子未然防止対策仕組み(願い)提出の庄屋藤八ら百姓四人の村々 31 ⅲ村々の庄屋の願い「捨子仕らざる様の仕組」は後の福岡藩の重要政策「産子養育制度」起源となる 31 3仏教児童福祉・経世済民具現の福間の浜の勝浦村の永島半次兵衛寛勝・忍照和尚――漁村からの場合―― 33 ⅰ近世中期、福岡藩でも捨子の風習 33 ⅱ忍照の思考と行動の概要――児童福祉の祖のひとりと称される―― 33 ⅲ忍照は雷山千如寺大悲王院の実相律師を師僧に得度剃髪受戒・法名忍照、妻も得度受戒し法名貞寿 34 ⅳ福岡藩主黒田継高(一七〇三〜一七七五)の施政環境考 34 ⅴ円通寺薬師堂の立地と宗像大社の立地との宗教空間 35 ⅵ円通寺薬師堂造立年と円通寺想智院造立年との年代前後関係管窺 36 ⅶ圓通寺想智院(真言宗)建立・名児山(標高一六五㍍)と桂獄山(標高一四六㍍)との連峰西側斜面 36 ⅷ忍照の桂獄山円通寺開創年と黒田継高の大悲王院建立年との重なりは偶然か必然か 37 ⅸ「訶梨帝母堂」 37 ⅹ一七三二年、飢饉困窮難民の産子や捨子救済托鉢教化活動・ 「せめて・産着統一」化運動着手 37 ⅺ一七六〇年ころ、忍照「産子はみんな平等である」――せめて勝浦村と勝浦浜だけでも捨子の悪風習廃絶希う―― 38 ⅻ一七六四(宝暦十四)年、福岡藩六代藩主黒田継高――「捨て子制禁之事」 (掟)布達、享保の飢饉三十三回忌施餓鬼供養を筑前全域に命令―― 38 xiii忍照村中の産子全員に「産着」布施(明和元年一七六四) 40 xiv明和元(一七六四)年、産着浄財残金で貧窮産婦等救済 ・ 貧窮者の「産子養育料」扶助制度樹立(児童福祉) 40 xv明和六(一七六九)年、貧窮者「産子養育料」扶助制・ 「養育田」開田で「永代不易の養育料」の原資担保 41 xvi忍照遷化(安永五〔一七七六〕年)後も子(大庄屋半五郎(初代) )や孫(僧・勝道)により継承 41 xvii 忍照の子の、初代大庄屋半五郎(通算二代目) ・弐代目大庄屋半五郎(通算三代目)尽力 41 三 福岡藩の産子養育制度施政 41 ⅰ福岡藩人口減少財政苦境で藩主黒田継高の方針・ 「捨子養育」の「扶け合い運動」推進 41 ⅱ「捨子仕らざる様の仕組」 42 ⅲ忍照親子三代の 「働き (機能) 」 と 「業績 (構造) 」 とを藩レベルで認知し藩より忍照三代に次の趣旨で授 「賞」 42 ⅳ福岡藩の産子養育制度確立 42 ⅴ「養育米代金下付の仕組み」事例 42 ⅵ藩、村・浦、医師、穏婆の努力で筑前の国の人口増加 43 四 まとめ 44 |
ISSN | 02892251 (P) |
Hits | 323 |
Created date | 2022.04.26 |
Modified date | 2022.04.26 |
|
Best viewed with Chrome, Firefox, Safari(Mac) but not supported IE
|