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三昧と阿闍梨:三昧と生活規範2=Samadhi and Acary |
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Author |
小山典勇 (著)
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Source |
智山学報=Journal of Chizan Studies=智山學報
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Volume | v.38 |
Date | 1989.03.31 |
Pages | A39 - A51 |
Publisher | 智山勧學會 |
Publisher Url |
https://www.chisankangakukai.com/
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Location | 東京, 日本 [Tokyo, Japan] |
Content type | 期刊論文=Journal Article |
Language | 日文=Japanese |
Abstract | 間もなく興教大師の850年御遠忌を迎え,観法が脚光を浴びている,しかしその意味が論じられているとは言いがたい。観法の意義を根本的に問うことから始めてみようではないか。そこで 1 宗教(宗教者,その体験)と日常生活(知的な営み,ものの見方および具体的行為)とのかかわりを考察する。それは真言行者とその生活の在り方を問うことになろう。2 今は考察の事例として《般舟三昧経》を取り上げ,前項の1課題を検討する。3 考察の手掛かりとして,筆者がこれまで取り組んできた「パクティ信仰のあり方」をあらかじめ紹介し,比較していくことにしたい。パクティ信仰は最高存在(あるいはその化身)を情的に精神集中して,それとの一体感でありその法悦である。またそこに至る経緯(修行,実践),結果(法悦)でもある。宗教的には常時一体帯感を味わうことが目指されるであろう。その道筋は時に伝統的社会規範,生活規範と衝突することを避けられない。法悦は内面に蓄積され,行為規範となってあふれ出ることになるからである。そのエネルギーは社会を動かして行く原動力となろう。おおよそこのような展開を書くことができよう。4 《般舟三昧経》は大乗初期の,三昧をテーマとする経典群の1である。「現在諸仏悉在前立三昧」とは何か,仏を見るとは,そして仏を見た人はどんな生活をするかの各項について,考察しよう。5 これまで《般舟三昧経》に対する関心は,a阿弥陀仏が登場しているので浄土関係,b三昧については止観に着目して天台関係が主に考察している。したがって経の全体像を理解し,さらに1の課題を検討することは意味があると考える。テキストは3巻本を用いる。 |
Table of contents | はじめに 40 Ⅰ 40 Ⅱ 41 Ⅲ 49 註 51 |
ISSN | 02865661 (P) |
DOI | https://doi.org/10.18963/chisangakuho.38.0_A39 |
Hits | 121 |
Created date | 2023.03.31 |
Modified date | 2023.03.31 |
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