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Neurological Underpinnings of Zen Meditation and Christian Spiritual Excercises |
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Author |
Senécal, Bernard
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Source |
南山宗教文化研究所シンポジウム(第15回) -- 脳科学と宗教
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Date | 2009.11.28-29 |
Pages | 62 - 67 |
Publisher | 南山宗教文化研究所=Nanzan Institute for Religion and Culture |
Publisher Url |
http://nirc.nanzan-u.ac.jp/
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Location | 名古屋, 日本 [Nagoya, Japan] |
Content type | 會議論文=Proceeding Article |
Language | 英文=English; 日文=Japanese |
Note | GPSS国際シンポジウム |
Abstract | 韓国西江大学宗教学部に籍を置くBernard Senécal 教授が「禅の瞑想とキリスト教の霊的訓練の神経学的基礎」という題目で発表した。概要は以下の通りである。禅あるいは仏教的な瞑想を取り入れるキリスト者は、時空間感覚をつかさどる側頭頭頂接合部の活動が特殊な変化をきたすことで意識を永遠の時空間に向けるようになる。しかしこうした傾向が強まるほど、特定の場所と時間に存在しているという感覚は弱まり、言語は現実への表現能力を失い、行為は意味のないものとなるが、この事態に多くのキリスト教禅の修行者は気が付いていない。がゆえに、たしかに瞑想の実践においていったい何が起こっているかを知ることは言語と行為の回復につながろう。かくして研究奨励金を狙って瞑想中の脳に関して多くの科学書が刊行されてはいるが、そこには客観的なデータ分析の結果を逸脱した解釈を生み出す誘惑がみられるようである。所詮、宇宙は科学者が問うやり方に応じて応えるにすぎないのだが。ブッダやキリストは生涯を通じて求めるべき究極の境地を目指した覚者だと考えるのが健全といえるかもしれない。にもかかわらず、禅を行ずるキリスト者が経験する意識のなぞめいた状態を説明しようと試みる仮説が正しいものだとするならば、その仮説は瞑想と知恵と行為との相互関係の説明に長けた東西の伝統がながきにわたって経験的に見出してきた内容を説明するのに有益であろう。ゲーテは「瞑想は拡大するが麻痺をもたらす。行為は鼓舞するが限界がある。瞑想と行為を両立する者はとても少ない」と語ったが、これを仏教の言葉に置き換えれば、三昧と智慧との均衡こそが求められるということである。側頭頭頂接合部に関する仮説のおかげで、智慧が生まれ行為が喚起される際に見られる瞑想脳の機能をキリスト教禅の実践者が理解するなら、わたしの論考は無駄ではなかったと言えるだろう。 |
ISSN | 0386720X |
Hits | 762 |
Created date | 2010.10.06 |
Modified date | 2015.08.18 |
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