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『アビダルマ・ディーパ』における心不相応行の研究(2)=A Study on the Concept of Cittaviprayuktasaṁskāra (Conditioned Forces Dissociated from Thought) in the Abhidharmadīpa and Vibhāṣā-prabhāvṛtti (2) |
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著者 |
那須円照 (譯)=Nasu, Ensho (tr.)
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掲載誌 |
インド学チベット学研究=Journal of Indian and Tibetan Studies=インドガク チベットガク ケンキュウ
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巻号 | n.13 |
出版年月日 | 2009 |
ページ | 55 - 97 |
出版者 | インド哲学研究会 |
出版サイト |
http://www.jits-ryukoku.net/
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出版地 | 京都, 日本 [Kyoto, Japan] |
資料の種類 | 期刊論文=Journal Article |
言語 | 日文=Japanese |
ノート | 作者單位:龍谷大学仏教文化研究所客員研究員 |
キーワード | 『アビダルマ・ディーパ』; 『倶舎論』; 心不相応行; 有為の四相; 生・住・異(=老)・滅; 名・句・文 |
抄録 | 本論攷は、前稿(「『アビダルマ・ディーパ』における心不相応行の研究 (1)」:『インド学チベット学研究』第 12 号所収)に引き続く後半の部分の研究である。 本稿では、『アビダルマ・ディーパ』(Abhidharmad¯ıpa with Vibh¯as.¯aprabh¯avr. tti(略号:ADV))における「心不相応行」について論じた部分の、後半である有為の四相(生 (j¯ati)、住 (sthiti)、異(=老)(jar¯a)、滅 (anityat¯a))と名身 (n¯amak¯aya)、句身 (padak¯aya)、文身 (vya˜njanak¯aya)の箇所を和訳・解説するとともに、テクストとテクスト校訂を提示する。本箇所は、時間論・存在論・認識論・言語論といった哲学的問題が論じられている特に重要な箇所である。 まず有為の四相の個々の要素について概説する。「生」とは、ダルマ(法)が現在世に生じるために働く要素である。有部では、この働きは現在の直前の未来正生位においてあるとされる。この「生」については、ADV では、解説が省略されている。「住」とは、ダルマを現在世にとどめるために働く要素である。これがあるから、ダルマが「同類因の取果作用」を発揮するための時間が保たれるのである。同類因の取果作用とは、同類因が等流果を生じさせる(同類のダルマの連続の因果関係)とき、同類因となるダルマが、現在世において、次の瞬間に生じる未来にあ るダルマをつかまえて因果関係を結ぶことである。『順正理論』では「取果」は「引果」と表現される。「異(=老)」とは、現在世において、ダルマの能力を損なう働きをする要素である。これがなければ、ダルマに第二以後の作用が生じる(一つのダルマが二回以上結果を生じさせることになる)ことになってしまうのである。「滅」とは、「無常性」とも呼ばれ、ダルマを現在世から過去世へと滅せしめる働きをする要素である。ディーパカーラ(有部)は、この「滅」=「滅相」以外に、「滅相」の結果としての「滅そのもの」の実在性をも、『順正理論』からの影響もあり、認めているようである。以上四つは、一般には「生相」・「住相」・「異相(=老相)」・「滅相」とも呼ばれる。 次に、名・句・文について概説する。「名」とは、対象に対して命名するための要素であり、例えば「壺」等の名前である。「句」とは、文章である。例えば、「壺が見られる」のような文章である。これによって、特定の作用や属性や時が理解される。「文」とは音節である。ここで、現代において一般に「文」と言えば、「文章」の意味に理解されるが、ここでの「文」(モン) とは、特に音節を指すことに注意されたい。これは例えば「ka」のような音節である。「文」は部分を有さず、形態がなく、意 (manas) のように妨げられず、非物質的であり、三時の対象を知らせうるものである。前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)が物質的な五根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)の制約を受けて現在のもののみを認識できるのと異なり、意識は精神的な意根によるから現在のものだけでなく過去・未来のものも認識できる。「文」(モン)は物質的ではないから、発せられたとき、現在の音だけでなく、過去・未来の音も表現できる。精神的な「意」や「文」は、空間的な場合と同様に時間的にも念劫融即(一瞬の時間的存在が永遠の時間的存在と区別されないこと)的に無碍である。これら名・句・文は多数ありまとまって働くので、名身・句身・文身とも呼ばれる。身とは、この場合、「集まり」の意味である。世親は、これらの心不相応行の実在性を『倶舎論』(Abhidharmako´sabh¯as.ya(AKBh)) において否定する。ディーパカーラ(有部)はそれに対して心不相応行の実在性を肯定する。ディーパカーラ(有部)の学説として、今回扱う箇所で注目すべき点は、本稿 8-6. において、唯識学派によると思われる極微実在説批判の影響を受けて、極微の実在性の否定を受け入れていることである。一般的にはディーパカーラは有部の立場で物質の実在性を認めているが、理論的には唯識学派の合理的な説を受け入れざるを得なかったのであろう。 本研究を作成するにあたって、先行研究としての、本検討箇所全体を覆う、三友 [2004] と、名・句・文全体を覆う、水田[1979] と、有為の四相の箇所の部分訳、齋藤 [2001] を参照させていただいた。 本和訳作成に当たり、龍谷大学名誉教授・神子上惠生先生の御懇切丁寧な個人指導を賜った。ここに記して心から甚深の謝意を表する。
This essay is the second part of a study on the concept of Cittaviprayuktasaṁskāra(conditioned forces dissociated from thought). In this essay, I examine the seven cittaviprayuktasaṁskāra, focusing in this latter half of the discussion on the concept found in the Abhidharmadīpa and Vibhasāprabhāvrtti (ADV). The seven are the elements of four conditioned characteristics (catvārisaṃskṛtalakṣaṇ āni): jāti [birth], sthiti [continuance], jarā [senescence], and anityatā [desinence]), nāmakāya (name-aggregate), padakāya (phraseaggregate), and vyañjanakāya (syllable-aggregate). Discussions of these seven concepts in the Abhidharmadīpa deal with the fundamental philosophical theories, such as time theory, ontology, epistemology, and linguistic theory, which are known to be very crucial to understanding abhidharma philosophy. An annotated Japanese translation of the related parts of the text is included in this essay togther with the original Sanskrit texts. In the four characteristics, jāti acts to produce dharmas in the present-state. In the ADV, an explanation on jāti is omitted. Sthiti works to keep dharmas existent in the present-state. Because of sthiti, a dharma, as a homogeneous cause, can have time to seize the next dharmacontinuously. Jarādisables dharmas. Without Jarā, dharmas would continue producing subsequent actions eternally. Anityatā eliminates dharmas in the present-state momentarily and passes them into the past-state. Dīpakāra of the Sarvāstivāda school, perhaps influenced by the interpretation of Saṃghabhadra’s Nyāyānusāra, admits the elimination of a dharma as a real dharma. Next, nāma gives name to objects, such as“pots,”etc. Pada generates sentences, such as “a pot is seen.” Because of pada, characters, actions and the time of the object’s existence are known. Vyañjana means syllable, such as“ka.”Vyañjana cannot be divided into parts, have no forms, are not hindered just like manas by other factors, are non-materialistic, and, can announce the subject to the three time-states of past, |
目次 | 7. <有為の四相> 56 7-1. <有為相の数について> 56 7-2. <住相について> 58 7-3. <老相について> 59 7-3-1. <老相を否定する説> 59 7-3-2. <ディーパカーラ(有部)による老相の擁護> 60 7-3-3. <対論者による有部説の転変論との同一視と、ディーパカーラ(有部)による反論> 61 7-4. <滅についての有部と経量部の対論> 62 7-4-1. <ディーパカーラ(有部)の滅有因論の主張> 62 7-4-2. <経量部の反論(滅無因論)> 63 7-4-3. <ディーパカーラ(有部)の反論(滅有因論:総論) 64 7-4-4. <ディーパカーラ(有部)の反論(滅有因論:各論-1) 65 7-4-5. <経量部の反論(絶対的非存在としての滅)> 66 7-4-6. <ディーパカーラ(有部)の反論(滅有因論:各論-2) 66 7-4-7. <ディーパカーラ(有部)の滅有因論に関する教証と理証> 69 8. <名・句・文> 70 8-1. <名・句・文の定義> 70 8-1-1. <ディーパカーラ(有部)の主張と経量部の批判> 70 8-1-2. <ディーパカーラ(有部)による名・句・文の詳細な定義> 71 8-2. <経量部の反論(物質的な語という音声以外に名等は不必要という説)> 73 8-3-2. <論証 (2) > 74 8-3-3. <論証 (3) > 75 8-3-4. <論証 (4)(物質的音声以外の記憶や潜在印象 (sam.skāra) も含めて)> 76 8-4. <名等の無常性について> 77 8-5. <物質的音声と名等の関係> 77 8-6. <物質的音声は極微からなること> 78 8-7. <他学派との物質的音声極微所成説に関する対論> 79 8-8. <ディーパカーラ(有部)によるスポータと物質的音声と物質的音響の同一視> 80 8-9. <音声と名等との比較と、名等と対象の関係> 82 8-10. <非人為的な名・句・文と仏陀の一切智者性> 83 9. <心不相応行の分類的考察> 83 |
ISSN | 13427377 (P) |
ヒット数 | 826 |
作成日 | 2011.03.01 |
更新日期 | 2020.08.05 |
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