|
|
|
|
|
|
The Meaning of “Meaning”: A Debate between Navya-Nyāya and Prābhākara Mīmāṃsā=言葉の「意味」とは何か ――ガンゲーシャの普通名詞意味論の検討―― |
|
|
|
著者 |
岩崎陽一 (著)=いわさきよういち (au.)
|
掲載誌 |
印度學佛教學研究 =Journal of Indian and Buddhist Studies=Indogaku Bukkyōgaku Kenkyū
|
巻号 | v.65 n.3 (總號=n.142) |
出版年月日 | 2017.03.25 |
ページ | 1082 - 1088 |
出版者 | 日本印度学仏教学会 |
出版サイト |
http://www.jaibs.jp/
|
出版地 | 東京, 日本 [Tokyo, Japan] |
資料の種類 | 期刊論文=Journal Article |
言語 | 英文=English |
ノート | This research was supported in part by JSPS KAKENHI Grant Number 15J04441 JSPS Research Fellow |
キーワード | meaning; artha; śakti; semantics; Nyāya; Prābhākara |
抄録 | 言葉が意味するもの,話し手がその言葉により意図するもの,聞き手が言葉から理解するもの――インドにおける古い時代の意味論では,これらは明確に区別されていなかった.しかし,ニヤーヤ学派とミーマーンサー学派プラバーカラ派の意味論論争においては,これらの差異が大きな意味をもつ.ニヤーヤ学派は,言葉から直接的に(推理を介さずに)理解されるものはその言葉の意味であるという前提に立つ.一方,プラバーカラ派は,言葉から直接的に理解されるからといって,それが言葉の意味であるとは限らないと主張する.本稿では,新ニヤーヤ学派のガンゲーシャ(14c)が『タットヴァ・チンターマニ』で展開する意味論論争の分析を通して,言葉の「意味」についての各学派の見解を検討する.
そこで議論されるのは,普通名詞の意味は普遍か個物かという,古くから論じられてきた問題である.ガンゲーシャとプラバーカラ派のいずれも,普遍と個物は同時に,直接的に言葉から理解されると認める.(バッタ派はそれを認めない.)しかし,プラバーカラ派は,個物は言葉の意味ではないという.この立場においては,「言葉の意味とはその言葉から理解されるものである」という考えは支持されない.では,彼らにとって言葉の「意味」とは何なのか.ガンゲーシャのテキストにおいては,その明確な定義は与えられない.しかし,彼らは言葉の意味を,その言葉から理解されるべき,言葉がそれ自体で意味するものと捉えていたと考えると,彼らの議論をうまく説明できる.そしてこれは,ヴェーダの儀軌解釈を本務とするミーマーンサー学派に必要な意味論であるといえる.規則を述べる言葉は,それから実際に何が理解されるかに関わらず,そこから理解される「べき」意味を有していなければならない.そしてそれは,話し手の意図や聞き手の理解からは導出できない. |
目次 | 1. Introduction 1082 2. Semantics of General Nouns in TC 1083 Outline 1083 Nyāya and Prābhākara versus Bhāṭṭa and Maṇḍana 1084 Nyāya versus Prābhākara 1085 Standard Prābhākara View versus Prābhākara kubja-śakti-vāda 1085 3. Conclusion: The Meaning of “Meaning” 1086 |
ISSN | 00194344 (P); 18840051 (E) |
DOI | 10.4259/ibk.65.3_1082 |
ヒット数 | 212 |
作成日 | 2022.05.18 |
|
Chrome, Firefox, Safari(Mac)での検索をお勧めします。IEではこの検索システムを表示できません。
|