サイトマップ本館について諮問委員会お問い合わせ資料提供著作権について当サイトの内容を引用するホームページへ        

書目仏学著者データベース当サイト内
検索システム全文コレクションデジタル仏経言語レッスンリンク
 


加えサービス
書誌管理
書き出し
How the Self Is Extinguished: Meanings of “Mine, I (Me) and My Self”=我はどうやって消えるのか?:私のもの・私・私の我の意味
著者 Fujimoto, Akira (著)=藤本晃 (au.)
掲載誌 印度學佛教學研究 =Journal of Indian and Buddhist Studies=Indogaku Bukkyōgaku Kenkyū
巻号v.69 n.3 (總號=n.154)
出版年月日2021.03.25
ページ1019 - 1026
出版者日本印度学仏教学会
出版サイト http://www.jaibs.jp/
出版地東京, 日本 [Tokyo, Japan]
資料の種類期刊論文=Journal Article
言語英文=English
キーワードahaṁkāra; asaṅkhata; anāgāmin; anātman; khaye ñāṇaṁ
抄録仏教の見方では,「我」は永遠不滅の実体ではなく自分の心身を「私」とか「私がいる」などと執着することから生じる誤解にすぎない.それゆえ,仏教では無我という.

無我は,執着も無明も全て滅した最後の第四の悟り・阿羅漢果で完全に証得される.

しかし,悟りに四段階があるように,無我の証得にも段階があるのではないだろうか.三通りに言い換えられる無我の定型句「これは私のものではない.これは私ではない.これは私の我ではない」が,無我の段階を示すと予想し,検討する.

「私のもの」という執着は,悟りの第三段階・不還果で滅し,「私」という執着は,最後の完全なる悟り・阿羅漢果で滅する.

では,最後の「これは私の我ではない」は何を意味するのだろうか.筆者は,「悟りもまた我ではない」と了知した解脱智見・滅尽智という正見を意味すると考える.「諸行無常」,「一切行苦」に対して「諸法無我」といわれるのは,有為法のみならず無為法たる解脱・滅を含めた「すべての法が我ではない」のである.
目次1. Foreword: formula of three phrases on Non-self 1019
2. What “mine” and “I (me)” mean and how they are extinguished? 1020
2.1. What is extinguished in Anāgāmin?: to see five aggregates “mine” 1020
2.2. Both “mine” and “I (me)” are extinguished in Arahant 1022
2.3. What remains in Anāgāmin? “Mine” extinct, “I (me)” still remains 1023
3. Then, what is “my Self”? 1024
ISSN00194344 (P); 18840051 (E)
DOIhttps://doi.org/10.4259/ibk.69.3_1019
ヒット数166
作成日2023.01.03
更新日期2023.01.03



Chrome, Firefox, Safari(Mac)での検索をお勧めします。IEではこの検索システムを表示できません。

注意:

この先は にアクセスすることになります。このデータベースが提供する全文が有料の場合は、表示することができませんのでご了承ください。

修正のご指摘

下のフォームで修正していただきます。正しい情報を入れた後、下の送信ボタンを押してください。
(管理人がご意見にすぐ対応させていただきます。)

シリアル番号
661046

検索履歴
フィールドコードに関するご説明
検索条件ブラウズ