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俊乗房重源史料集成
著者 小林剛 (編)=Kobayashi, Takeshi (ed.) ; 奈良文化財研究所 (編)=Nara National Research Institute for Cultural Properties (ed.)
復刻
出版年月日2015.11.30
ページ592
出版者国立文化財機構奈良文化財研究所, 吉川弘文館 (発売)
出版サイト https://www.yoshikawa-k.co.jp/
出版地東京, 日本 [Tokyo, Japan]
シリーズ奈良國立文化財研究所史料
シリーズナンバー4
資料の種類書籍=Book
言語日文=Japanese
ノート原本の標題紙: 奈良國立文化財研究所史料第4冊 俊乘房重源史料集成 小林剛編
巻末p1の索引[凡例]に平成27年の復刊に際して、昭和42年3月に公刊した『俊乘房重源史料集成索引』を収録したとあり
索引: 巻末p1-35
吉川弘文館 1965年刊に索引を加えて復刊
キーワード重源(1121-1206); 再建; 復興; 東大寺; 大仏
抄録平氏に焼かれた東大寺大仏殿復興を担った重源。その生涯と、朝廷・後白河院・源頼朝らの支援を得ての再建に関わる史料を、東大寺所蔵のものも含めて網羅。活躍の舞台は畿内だけでなく、料国にあてられた周防や別所の置かれた播磨・伊賀などに及ぶ。鎌倉期の政治史・経済史・彫刻史・建築史に不可欠な史料集を、新たに索引を附し50年振りに復刊。
目次一 保安二年(一一二一)紀季重の男として京都に生る
二 長承二年(一一三三)年十三にして醍醐寺に入って出家し、上醍醐圓明房に居る
三 保延三年(一一三七)年十七にして四國邊を修行して廻る
四 保延五年(一一三九)十九歳の時、はじめて大峯を修行し、また熊野、御嶽、葛城等に登る
五 その後、高野山にも登る
六 久壽二年(一一五五)六月廿一日、醍醐の栢杜堂を建て、九躰阿彌陀像を造る
七 應保二年(一一六二)五月二十七日頃、久我雅定の遺骨を醍醐寺一乘院の本堂床下に埋葬することに結縁す
八 長寛(一一六三)治承(一一七七)の間、下醍醐の中院堂に藤原公基筆の額を懸けることに結縁す
九 この頃、藤原重兼の墓の上に建てられた醍醐寺慈心院の塔の造營に結縁す
一〇 またこの頃、醍醐に於て如法經等を書寫供養す
一一 この頃、また法然房源空に學ぶという
一二 仁安二年(一一六七)宋に赴き、翌三年(一一六八)、榮西と共に歸朝し、淨土五祖畫像や五劫思惟阿彌陀像等を將來すという
一三 宋より歸國後、間もなく信濃の善光寺に参詣すという
一四 安元元年(一一七五)十月二十三日、榮西、鎭西誓願寺の本尊丈六阿彌陀如來像を造立供養し、重源これに結縁す
一五 安元二年(一一七六)二月六日、高野山延壽院に銅鐘一口を施入す
一六 治承四年(一一八〇)十二月廿八日、平重衡の兵火により、東大寺一山燒亡す
一七 治承五年(一一八一)二月下旬、重源、東大寺に参詣して、燒け損じた大佛を見て歎く
一八 治承五年(一一八一)六月廿六日、東大寺造營の知識詔書を下し、造寺官を任命す
一九 治承五年(一一八一)七月十三日、公家、東大寺造營の費用捻出について苦慮す
二〇 養和元年(一一八一)八月、重源に東大寺造營勸進の宣旨を賜る
二一 養和元年(一一八一)十月六日、東大寺大佛鑄造始。先ず大佛の螺髪を鑄始む
二二 養和元年(一一八一)十月九日、重源、洛中の諸家を勸進して廻り、女院その他より奉加を受く
二三 養和二年(一一八二)二月廿日、重源、東大寺大佛鑄造の費用を、主として知識物を以てなす由を申す
二四 壽永元年(一一八二)七月廿三日、重源、宋の鑄師陳和卿を語らって、東大寺大佛を鑄造せんとす
二五 壽永二年(一一八三)正月廿四日、重源、はじめて九條兼實に招かれて、入宋その他のことを語る
二六 壽永二年(一一八三)二月十一日、東大寺大佛の右手を鑄造す
二七 壽永二年(一一八三)三月十七日、重源の勸進により、鑄師草部是助、上醍醐大湯屋の湯釜を鑄造す
二八 壽永二年(一一八三)四月十九日、東大寺大佛の頭部を鑄始む。この頃から鑄師草部是助等を加えて、五月十八日にその鑄造を畢り、六月一日に磨き上ぐ
二九 壽永二年(一一八三)十二月廿二日、造東大寺官の下名あり
三〇 壽永二年(一一八三)頃から、重源、諸人に阿彌陀佛號を付し始む
三一 壽永三年(一一八四)正月五日、東大寺大佛の左手を鑄造す。そして重源の見込では、本年中に大佛修造の功を終るという
三二 壽永三年(一一八四)四月九日、重源、弘法大師空海所持と傳える獨鈷、三鈷、五鈷等を傳得し、六月廿一日、これ等を高野山御影堂に奉納す
三三 壽永三年(一一八四)六月二十三日、東大寺大佛の鑄造ほゞ畢りしを以て、來七月中に完成せしめて、その後、鍍金をなすという
三四 この頃、重源、東大寺造營用の巨材を吉野山中に見出して喜ぶ
三五 元暦二年(一一八五)二月廿九日、重源、東大寺大佛殿を營むために邪魔になる大佛背後の築山をくずさんことを請い、三月十九日、その指圖類を差出す
三六 元暦二年(一一八五)三月七日、源頼朝、重源に米一萬石、砂金一千兩、上絹一千疋等を奉加す
三七 元暦二年(一一八五)三月卅日、重源、東大寺造營用の巨材を伊勢太神宮の杣にて採らんことを申請す
三八 元暦二年(一一八五)四月廿七目、九條兼實、大佛の像内に納める佛舍利及び願文を重源に渡し、八月廿三日、またこれに清淨經などを加えて、奉籠す
三九 元暦二年(一一八五)六月廿三日、南都の請により、平重衡を木津邊にて斬り、その首級を奈良坂に懸く
四〇 文治元年(一一八五)八月廿八日、東大寺大佛開眼供養
四一 文治二年(一一八六)二月二日、重源を東大寺別當に補さんとの議あれど、止む
四二 文治二年(一一八六)二月中旬、重源、伊勢太神宮に参詣して、東大寺造營の成功を祈り、四月廿六日、神前に大般若經を轉讀す
四三 文治二年(一一八六)三月廿三日、周防國を東大寺造營料に宛て、重源をして國務を管せしむ
四四 文治二年(一一八六)四月十八日、重源、番匠等を率いて周防國に下向し、杣に入る
四五 文治二年(一一八六)七月廿七日、東大寺大佛が時々光を放って、奇異をあらわすことを注進す
四六 文治二年(一一八六)七月、東大寺三綱等、寺家の造營を進めるために、伊賀國における伊勢齋宮の野宮課役を免れ、また平時定などが同國黒田莊、鞆田莊、湯船莊、玉瀧莊等の寺領を濫妨するのを停められんことを請う
四七 文治二年(一一八六)八月十五日、九條兼實、東大寺に参詣す
四八 文治二年(一一八六)八月十六日、西行、重源との約束による奥羽勸進の途次、鎌倉に立寄る
四九 文治二年(一一八六)秋頃、重源、源空や顯眞等の大原談義に参會す
五〇 文治三年(一一八七)正月廿六日、重源、九條兼實に面會す
五一 文治三年(一一八七)三月四日、源頼朝、東大寺造營の材木運搬に妨害をなさず精勤すべきことを、周防國の地頭等に仰付く
五二 文治三年(一一八七)四月廿四日、重源、高野山新別所における蓮社の交りを絶って、鎌倉に赴くという
五三 文治三年(一一八七)五月十九日頃、鎭西の宇佐、香椎、筥崎等の諸宮造營され、重源、その中の筥崎宮に於て如法經を書寫す
五四 文治三年(一一八七)五月廿九日、造東大寺司除目。權右中辨藤原定長、行隆に代って長官となる
五五 文治三年(一一八七)八月廿七日、東大寺衆徒、源頼朝に祈請卷數を送り、十月九日、頼朝これに對して報状を出す
五六 文治三年(一一八七)九月二日、重源、自然木脇息を東大寺念佛所に施入す
五七 文治三年(一一八七)九月廿九日、造東大寺長官定長、大佛鍍金のための砂金その他について、九條兼實と相談す
五八 文治三年(一一八七)九月頃、東大寺大佛殿の長さ十三丈に及ぶ棟木を、周防杣にて採る
五九 文治三年(一一八七)十月三日、重源、九條兼實に謁して、東大寺造營に關し、人夫のこと、麻苧のこと、材木のこと等を語る
六〇 文治三年(一一八七)十月七日、院宣を下して、伊賀國司雅經が東大寺領鞆田莊を押妨することを停めしむ
六一 文治三年(一一八七)十月十八日、近江敏滿寺の再興成り、重源これに結縁して、藤原伊經筆の額を施入す
六二 文治三年(一一八七)頃、重源、東大寺淨土堂を建つ
六三 文治三年(一一八七)頃から、周防阿彌陀寺を建つ
六四 文治四年(一一八八)二月十八日、鎌倉幕府、東大寺造營について、重源に合力すべきことを、帥中納言經房に申渡す
六五 文治四年(一一八八)三月十日に鎌倉に到着した重源の書状によれば、東大寺の再興造營は何かと諸檀那の合力に俟つところ大なる旨を申す
六六 文治四年(一一八八)三月十七日、重源の請により、源頼朝、東大寺の用材を周防國から運搬するについて、請文を進め、次いでその廿八日に、院宣を下さる
六七 文治四年(一一八八)五月下旬、東大寺鎭守八幡宮の神躰造立のことを奏聞す
六八 文治四年(一一八八)頃、重源の獎めにより、南都の齊所聖と稱するもの、高野山新別所の蓮社に入るという
六九 文治五年(一一八九)三月廿一日、勅封倉の濕損甚しきにより、造東大寺長官藤原定長これを【ケン】知す
七〇 文治五年(一一八九)閏四月八日、鎌倉幕府の奥州追討が東大寺造營の妨にならざるように、藤原經房をして源頼朝に教書を遣さしむ
七一 文治五年(一一八九)六月四日、源頼朝、東大寺の用材を周防國から運ぶについてこれに特に力を盡した佐々木高綱を稱讃す
七二 文治五年(一一八九)八月三日、重源、九條兼實に面會して、東大寺造營の困難を語り、勸進職を辭退せんことを申す
七三 文治五年(一一八九)八月廿二日、九條兼實、南都に下向して、東大寺大佛の面相の出來榮えを見る
七四 建久元年(一一九〇)六月二日、重源、公家の下知を俟たずして、東大寺大佛背後の築山を除き去る
七五 建久元年(一一九〇)七月廿七日、はじめて東大寺大佛殿の母屋柱を立つ
七六 建久元年(一一九〇)八月廿七日、東大寺造營用の麻苧のことについて、院宣を下さる
七七 建久元年(一一九〇)十月十七日、東大寺東南院を建つ。重源これに播磨大部庄、周防椹野庄等を寄附し、またその藥師堂を修理す
七八 建久元年(一一九〇)十月十九日、東大寺大佛殿上棟
七九 建久元年(一一九〇)十月廿七日、東大寺の工人等を、諸國の權守や介や目等に任ずることを得せしむ
八〇 建久元年(一一九〇)十二月十二日、院宣により、陳和卿に伊賀國の有丸、廣瀬、阿波の諸莊を賜りしも、和卿これを東大寺淨土堂に寄進
ISBN9784642015776; 4642015779
ヒット数34
作成日2023.11.07
更新日期2024.02.15



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