サイトマップ本館について諮問委員会お問い合わせ資料提供著作権について当サイトの内容を引用するホームページへ        

書目仏学著者データベース当サイト内
検索システム全文コレクションデジタル仏経言語レッスンリンク
 


加えサービス
書誌管理
書き出し
L'image du bodhisattva Seishi du Kondō du Hōryūji retrouvée au musée Guimet. Le dossier documentaire
著者 Frank, Bernard
掲載誌 Arts Asiatiques
巻号v.47
出版年月日1992
ページ89 - 108
出版者École Française d'Extrême-Orient
出版サイト https://www.efeo.fr/index.php?l=EN
出版地Saigon, Viet Nam [西貢, 越南]
資料の種類期刊論文=Journal Article
言語法文=French
ノート360
キーワードKosho, fl. ca.1230. il: Kannon (illustration); Horyuji (Monastery: Japan) Mus2ee Guimet (Paris, France); Sculpture -- Missing and found works; Reconstruction of works of art; Bronzes, Japanese; Bodhisattvas; Bronzes, Buddhist; Triads
抄録Under the double influence of the development of Amidist's faiths and a certain reversal to the origin of Japanese Buddhism, the Prince Shōtoku, considered formerly as the incarnation of the great compassionate Kannon, knew then a renewal of popularity. The origin of the inspiration placing the Amida's Triad in the Kondō has probably to be searched among a Religious like Kenshin, well-known compiler of an important mass of information about the prince's life accomplished in 1238 (Shōtokutaishi den shiki), an the instigator of a maṇḍala centred on the Prince himself (Shōkō-mandara). All things considered, the most fundamental place is granted to this Triad in the beliefs, expressed by the religious dispositif of the Kondō both in the Shōtoku-taishi den shiki and in the maṇḍala in question: stating her name, the mother of the Prince, widow of the Emperor Yõmei (the Hõryūji, it has to be recalled, has been built initially for his recovery) is nominated as a ″descended trace″ of Amida; the Prince, himself, like one of Kannon and his wife the Lady Takahashi, alias Kashiwade, like one of Seishi. This is the conception having apparently presided over the source of the statue, Emile Guimet acquired later. He bought it as a Chinese work suspecting nothing about the Holy and glorious origin. The circumstances of this object's disappearance from the Monastery has still not been resoluted in the present state of knowledge. This article is the presentation of the texts relating to this question.


1989 年ギメ美術館収蔵庫内で発見され た金銅勢至菩薩像が、阿弥陀三尊の他の : 体 と共に、運慶の四男の大仏師康勝が法隆寺金 堂西の間の須弥座のために 1231 年に制作 したものであるということは、爾後ほぼ確か な事実であるとしてよいであろう。西の間の 須弥座は、止利仏師が 623 年に制作した、かの有名な釈迦三尊が安置される中央須弥壇 の右側に位置し、また 670 年の寺院全焼後 の制作とされる薬師如来像のある東の間に相 対して置かれたが、この西の間の須弥座は 7 世紀末の寺院再建の際に造られたものであっ た。 この阿弥陀三尊の中尊の光背の裏の銘文に よれば、11 世紀末- 一 説によれば10 世紀末 に盗まれた阿弥陀. 尊に代わる ものとして造像されたとされるが、支際には、この須弥壇 に初の的の : 槔を安置する ことになるには、1232 年の時点を待たね ばならなかったといえる。それまでは、ただ 諸尊像類が置かれていたのみであったようで ある。 法隆寺はこの須弥座に本来あるべき阿弥陀 三尊像の制作を、康勝に命じて作らせたので あるが、仏師は見事な写実的作風のみならず、力強い表現力で特徵づけるとと同時に、特に 堂内にすでに置かれている彫像類との調和のため、必然的に占風な様式を摸すことも配慮 して造像している。 当時、阿弥陀信仰の発達と同時に、日本 代仏教の原点への一種の回帰の影響もあり、古来、大慈悲の観世音菩薩の化身と考えられ てきた聖徳太子への新たな信仰の隆盛がおこ った。この金堂の阿弥陀三荨の造立の推進を したのは、1238 年に完成した聖徳太子伝 の重要な集大成(『聖徳太子伝私記) の編 者であると同時に太子を中心にした曼陀羅 (「聖皇曼陀羅」) の発願者として知られる 僧頭真あたりではないかと考えられる。『聖皆徳太子伝私記』においても上記の曼陀羅にお いても、この三尊は金堂の宗教上の配置に見 られる信仰的見地からいえば、結局最も根本 的な位置を与えられているのである。またこ れ等の資料には、故用明天皇( 法隆寺は本来 その病気平癒のために創立されたわけである が) の皇后である太子の母親は、まさしく阿 弥陀の垂迹身、太子自身は観音の、またその 夫人の高橋妃、別名膳妃は勢至菩薩の垂迹身 とそれぞれ明記されている。 エミ一ル ギメが入手することとなったこ の像の誕生の背景にあった支配的な気運はこ のようなものであったと言えよう。ギメはこ のように有り難く、また輝かしい出自をすこ しも知ることなく、中国の作品として購入し た。法隆寺からどの様な経緯でこの像が姿を 消すに至ったか現在の知見では不明である。本論文においてはこの問題に係わる文献資料 の紹介と翻訳を試みた。
ISSN00043958 (P); 21114552 (E)
ヒット数109
作成日1998.04.28
更新日期2022.04.27



Chrome, Firefox, Safari(Mac)での検索をお勧めします。IEではこの検索システムを表示できません。

注意:

この先は にアクセスすることになります。このデータベースが提供する全文が有料の場合は、表示することができませんのでご了承ください。

修正のご指摘

下のフォームで修正していただきます。正しい情報を入れた後、下の送信ボタンを押してください。
(管理人がご意見にすぐ対応させていただきます。)

シリアル番号
271245

検索履歴
フィールドコードに関するご説明
検索条件ブラウズ