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バルトリハリ著『ヴァーキヤパディーヤ』「関係詳解章」(52-88)とディグナーガ著『三時の考察』の比較研究(2)=A Comparative Study of Bhartrhari’s Chapter of “Saṃbandhasamuddeśa” (Verses 52-88) in the Vākyapadīya and Dignāga’s Traikālyaparīkṣā (2) |
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著者 |
那須円照
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掲載誌 |
インド学チベット学研究=Journal of Indian and Tibetan Studies=インドガク チベットガク ケンキュウ
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巻号 | n.19 |
出版年月日 | 2015.12 |
ページ | 31 - 56 |
出版者 | インド哲学研究会 |
出版サイト |
http://www.jits-ryukoku.net/
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出版地 | 京都, 日本 [Kyoto, Japan] |
資料の種類 | 期刊論文=Journal Article |
言語 | 日文=Japanese |
ノート | 作者單位:龍谷大学仏教文化研究所客員研究員 |
キーワード | 存在; 非存在; 言語活動; 無明; 効果的作用 |
抄録 | 本論攷は、前稿(「バルトリハリ著『ヴァーキヤパディーヤ』「関係詳解章」(52-88) とディ グナーガ著『三時の考察』の比較研究 (1)」,『インド学チベット学研究』18 号所収)に引き 続いて、文法学派のバルトリハリ著『ヴァーキヤパディーヤ』(Vākyapadīya) の「関係詳解章」 (Saṃbandhasamuddeśa) 第 60 偈から第 73 偈までと、それに対するヘーラーラージャの注釈、さらに、仏教徒のディグナーガ著『三時の考察』(Traikālyaparīkṣā) 第 9 偈から第 19 偈までを 比較し、そこに考察される諸問題を明らかにする。今回も、ディグナーガとバルトリハリの偈 はほぼ一致するので、バルトリハリの見解を明らかにすることが中心となる。 今回扱った範囲で顕著な思想的特色を少し概観すると、存在・非存在という概念の指す範囲 が、バルトリハリによれば、世俗的な場合と究極的な場合に分けられて考察されている。世俗 的な観点からは、存在・非存在という概念は、相互依存関係にある相対的なものであり、存在 は現在性(顕現)を持ち、非存在は過去性(記憶)・未来性(期待)を持ち、様々な効果的作用 の有無で区別され、この区別は無明の力により構想された虚妄なものであり、多様な現象世界 として説明される。ここでは、非存在といっても畢竟無ではなく、普通の現在の存在とは区別 されるが、過去・未来として、何らかの存在の一類型と考えられる。 それに対して、究極的な観点からは、存在は大存在としてのブラフマンであり、それ以外に は何もなく、一元論が主張される。非存在は全くの欠如であり、何等の力もない畢竟無とさ れ、大存在と畢竟無の間には何の因果関係もないとされる。 これらの見解は、主としてヘーラーラージャの注釈により理解される立場であり、ディグ ナーガがこのように解釈していたかは明らかではない。恐らく、ディグナーガは、前回扱った範囲で説かれた、三時の法が無自性であるという見解から推測すると、大存在という実有とし てのブラフマンは認めないであろう。彼にとっての一元の識も無自性空としての空性として説 明されるであろう。 以下、前稿と同じく、『ヴァーキヤパディーヤ』のテクストは[Iyer1963]を底本とし、他 の刊本と比較検討した。ヘーラーラージャの注釈は[Iyer1963]を使用したが、[服部 1961] が用いているベナレス本は参照できなかった。『三時の考察』のチベット語訳テクストは [Frauwallner1959]によった。 本研究は、龍谷大学名誉教授・神子上惠生先生のご指導の下に開かれた研究会の研究成果の 一部をもとに作成されたものである。ご懇切丁寧なご指導をいただいた神子上先生に心より感 謝の意を表する次第である。
In this essay, I compare the first half of Bhartṛhari’s Chapter of “Saṃbandhasamuddeśa” and Dignaga’s Traikālyaparīkṣā to identify similarities and differences in their thought contained in those verses. First, Bhartṛhari, in verses 52 to 58, discusses the falsity of linguistic cognition and the cognitions through sense-organs, and the purity (śuddhi) of the cognition distinct from the falsity. Next, in verses 59 to 71, Bhartṛhari introduces the falsity of existence and non-existence at the relative level (saṃvṛti) and the truth of the absolute existence (paramārthasatya) distinct from these two. In verse 72, Bhartṛhari then explains the transcendence (atiśaya) of the elements (mātrā) of cognition from false imaginations (vikalpa) and in verse 73 the relativity of universal and individual. Meanwhile, Dignaga begins his verse with the concept of the non-existence of self-nature of the ¯ beings (dharma) in three time periods. Dignaga’s verses 2 to 7 correspond with Bhartṛhari’s verses 52 to 58, and Dignaga’s verses 8 to 19, with Bhartṛhari’s verses 59 to 71. However, Bhartṛhari’s verses 52, 64, 72, and 73 have no correspondence in Dignaga’s verses. By comparing the first half of Bhartr˚ hari’s Chapter of “Sam. bandhasamuddesa´ ” and Dignaga’s Traikālyaparīkṣā, we can see that Bhartr˚ hari’s standpoint that the multifold linguistic cognition and cognitions that have forms, such as cognitions through sense-organs, are false is similar to that of Mahayāna Buddhism. Bhartṛhari’s understanding that there is truth that transcends both existence and non-existence is also Buddhistic. Bhartṛhari, however, differs from the Buddhist standpoint in that he believes the ultimate existence (paramārthasat) which transcends relativity (saṃvṛti) is individual and has no-relation with others. For Buddhists, the teaching of dependent origination applies to all dharmas. Logically speaking, therefore, Buddhists accept that both true existence and false existence are recognized as certain existences which compose this world and they are somewhat related with each other through dependent origination. I believe that the reason that Dignaga begins his verses with the statement that the existences of three time periods have no self-nature is to demonstrate his affirmation of this fundamental Buddhist standpoint. |
目次 | 9. 存在と非存在の相互依存性 32 10. 存在と非存在の構想状態における二元性と究極状態における二元性の否定 33 11. 因果関係の否定と、顕現と結果の不一不異性 35 12. 世俗的因果関係における存在・非存在は構想に過ぎない 39 13. 存在論者・非存在論者の対立と両者への批判 41 14. 一切の不二性と構想による区別 42 15. 四つの非存在・三つの時制・存在非存在の区別は構想の産物である 43 16. 非存在の実在性の否定 44 17. 存在の実在性の否定 46 18. 非存在にも存在にも三時の区別はあり得ない 48 19. 存在が非存在になることはなく、一切は存在のみ 49 20. 存在と非存在の不一不異の関係と、それからの超越 51 21. 勝義とは「無明による同一性と別異性の区別」から超越した無区別である 52 22. 普遍・特殊等の言語的表現活動では、不二なる実在の本質に触れられない 53
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ISSN | 13427377 (P) |
ヒット数 | 808 |
作成日 | 2020.08.21 |
更新日期 | 2020.08.21 |
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