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『三彌底部論』の研究:我に関する章 (下)=A Study on the Sammitīya-nikāya-śāstra: Chapter on Ātman (Part II) |
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作者 |
加治洋一 (著)=Kaji, Yoichi (au.)
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出處題名 |
佛教学セミナー=Buddhist Seminar=ブッキョウガク セミナー
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卷期 | n.51 |
出版日期 | 1990.05.30 |
頁次 | 32 - 53 |
出版者 | 大谷大学佛教学会 |
出版者網址 |
http://www.otani.ac.jp/cri/nab3mq00000014de.html
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出版地 | 京都, 日本 [Kyoto, Japan] |
資料類型 | 期刊論文=Journal Article |
使用語言 | 日文=Japanese |
關鍵詞 | 無我=Anatman |
摘要 | 本稿は本誌42號 (一九八五)、46號 (一九八七) に、同じ題名のもとに既發表の拙稿の続編である。
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目次 | Ⅲ 我についての他部派の見解に対する批判 32 1 主題の確認 32 2 我の存在についての他部派の見解に対する批判 33 ① 我が存在しないという主張に対する批判 33 イ 苦の生滅を我に敷衍してはならない 33 ロ 施設されている 33 ハ 蘊は無我であるが、それを我と名付ける 34 ニ 自在でないから把握できない 35 ホ 実体がないとは我の否定ではない 35 ② 我の存在.非存在の判断は控えるべきであるという主張に対する批判 36 イ 相を規定できなくても、存在については判断し得る 36 ロ 問の立て方が適切でない 37 ハ 正しく考察していない 37 ニ 存在の仕方が異なる 38 ホ 有の依止が説かれている 39 ③ 我が存在するという主張に対する批判 40 イ 我が存在しなくとも繫縛することに矛盾は生じない 40 ロ 有漏の五蘊である 40 ハ 唯心のみと説かれている 41 ニ 十二処である 41 ホ 我が存在しないとする主張と同類である 42 ④ 我の存在に関する議論のまとめ 42 3 プドガラと五蘊との関係についての他部派の見解に対する批判 43 ① 五蘊がプドガラであるとする主張に対する批判 43 ② プドガラと五蘊は別のものであるとする主張に対する批判 44 イ 身体全体の一部分の如くである 44 ロ 愛を断じると流転しない 46 ハ 有漏の五薀である 46 ニ 度説のプドガラである 47 ホ 別のものであるとも説かれていない 47 ③ プドガラと五蘊の関係に関する議論のまとめ 48 4 プドガラの常.無常についての他部派の見解に対する批判 49 ① プドガラは常であるとする主張に対する批判 49 イ 生死も常であることになる 49 ロ 同一相続の人に限られている 50 ハ 有余涅槃である 50 ニ 涅槃と同じであることになる 51 ② プドガラは無常であるとする主張に対する批判 51 イ 有漏の五蘊である 51 ロ 業も滅尽することになる 52 |
ISSN | 02871556 (P) |
點閱次數 | 492 |
建檔日期 | 2004.03.26
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更新日期 | 2022.02.22 |
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