釈尊もしくは初期の仏教は,インド社会を現代にいたるまで特徴づけている階級差別を批判し,バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラという四姓が平等であることを主張したと伝えられている.その平等論は多くの研究者によって紹介され,そして仏教思想の優れた点として人々に賞賛されてきた.しかし,J. W. de Jong氏("Buddhism and the Equality of the Four Castes," 1988)やDonald S. Lopez Jr.氏(Buddhism & Science, 2008)などの幾人かの研究者によって,八世紀前半に活躍したと考えられている中観派の学匠アヴァローキタヴラタの著書Prajnapradapa-takaの中に,釈尊が説いた四姓の平等に反するような記述がみられることが指摘されている.実際そのテキストにおいて異教徒の典籍であるManusmrtiの一節が引用され,その内容はシュードラに対する差別であることが確認できる.これまでの研究者はみな一様に,このようなManusmrtiの一節をアヴァローキタヴラタが自説の教証として肯定的に引用し,そして四姓の差別を容認していると考えているのである.しかし,当該箇所をよく吟味すると,かれはむしろ伝統にのっとり四姓の差別を批判しているように読みとることができるのである.テキストを読み解く際の鍵となるのは「dbri bkol」というあまり用例の見られないチベットのことばである.