Bhavivekaが著作したPrajnapradipa (PP)は,Mulamadhyamakakarika (MMK)に対する重要な注釈書の一つであるが,サンスクリット原典が見つかっていないことから,その解明にはチベット訳Ses rab sgron maと,漢訳『般若灯論』という二つの翻訳を用いるほかない.しかし,実際にはチベット訳のみが用いられ,漢訳はその訳の悪さが指摘されて以降ほとんど用いられてこなかった.一方で,近年,Leonard van der Kuijp教授が漢訳の価値に言及し,Helmut Krasser博士は,両訳に共通にみられる第22章の付論部分の考察に基づいてPPの成立状況に言及した.本稿では,Krasser氏が指摘したチベット語訳中の付論部分10箇所と,それに対応する漢訳部分を比較対照した結果,6箇所が漢訳に欠けていることを明らかにし,Krasser氏の想定をもとに,漢訳とチベット訳それぞれの元となったサンスクリット原本が異なっていた可能性を指摘した.一方でこの様な漢訳を用いた想定は,漢訳の「悪さ」を理由に,説得力を欠くとみなされがちである.Ni ma gragsとKlu'i rgyal mtshanの訳が相違するMMK第22章第1偈に関しても,漢訳はNi ma gragsの訳を支持し,Klu'i rgyal mtshanによるPPのチベット訳と相違するが,漢訳の妥当性は考慮されてこなかった.しかし漢訳の読みを正しいと仮定した場合に想定される,漢訳の注釈内容のサンスクリットは,一見相違するKlu'i rgyal mtshanによるチベット訳と,漢訳両方の訳になりうる可能性を有しており,文脈を考慮に入れるならば,当該の偈のチベット語訳は漢訳に基づき修正されるべきことを指摘した.確かに,漢訳は決して十分な訳ではないが,PP研究においては,偏見なく用いられるべきであろう.