網站導覽關於本館諮詢委員會聯絡我們書目提供版權聲明引用本站捐款贊助回首頁
書目佛學著者站內
檢索系統全文專區數位佛典語言教學相關連結
 


加值服務
書目管理
書目匯出
“Qizui biyi” Having Atoned for His Sin: Nichiren and Sadāparibhūta=「其罪畢已」 ――日蓮と常不軽菩薩――
作者 鈴木隆泰 (著)=すずきたかやす (au.)
出處題名 印度學佛教學研究 =Journal of Indian and Buddhist Studies=Indogaku Bukkyōgaku Kenkyū
卷期v.65 n.3 (總號=n.142)
出版日期2017.03.25
頁次1147 - 1155
出版者日本印度学仏教学会
出版者網址 http://www.jaibs.jp/
出版地東京, 日本 [Tokyo, Japan]
資料類型期刊論文=Journal Article
使用語言英文=English
附註項Professor, Yamaguchi Prefectural University, D.Litt.
關鍵詞Miaofa lianhua jing=妙法蓮華經; Fahua jing=法華經; Saddharmapuṇḍarīka; Changbuqing pusa=常不輕菩薩; Sadāparibhūta; qizui biyi=其罪畢已; Nichiren=日蓮; Kaimokushō=開目抄; Hokekyō no gyōja=法華經の行者
摘要『法華経』の「常不軽菩薩品」に登場する常不軽という名の出家菩薩は,増上慢の四衆にひたすら成仏の授記をし続け,そのことで彼らから誹謗,迫害を受けた.増上慢の四衆は常不軽を誹謗・迫害した罪で死後無間地獄に堕ちたが,自ら罪を畢え已わった後に常不軽と再会し,彼から『法華経』を教示され(=成仏の授記を受け),無上菩提へ向かう者となったとされる.ところが羅什訳の『妙法華』のみ,死時に臨んで常不軽が「其の罪,畢え已わって」(其罪畢已)としている.しかし,なぜ彼に罪があるのか,あるとすれば何の罪なのかが解明されないまま,今日に至っていた.

従来看過されていた事実として,Suzuki Takayasuは「常不軽菩薩品」に二種類の誹謗者が表されていることを明らかにした.二種類とは “『法華経』に出会う前の,『法華経』という仏語なしに無効な授記をしていた常不軽”(常不軽 ①)を誹謗した者たち(誹謗者 ①)と,“『法華経』に出会った後の,『法華経』という仏語をもって有効な授記をしていた常不軽”(常不軽 ②)を誹謗した者たち(誹謗者 ②)であり,後者の誹謗者 ② のみが,『法華経』説示者を誹謗した罪で堕地獄する.ところが『妙法華』のみ,常不軽 ② が『法華経』を説示していたという記述を欠いており,常不軽 ①と常不軽 ② との差違が判別しがたくなっている.

『法華経』の主張(『法華経』抜きに如来滅後に一切皆成の授記はできない.だからこそ,如来滅後にはこの『法華経』を説いて如来の名代として授記をせよ.如来のハタラキを肩代わりせよ)から判断して,常不軽 ① と常不軽 ② の差違は『法華経』にとって本質的であり,原典レベルで「其罪畢已」に相当する記述があったとは考えられない.羅什の参照した「亀茲(クチャ)の文」が特殊であったため,常不軽 ① と常不軽 ② との差違が判別しがたく,誹謗者 ① と誹謗者 ② を分ける必要が,漢訳段階で生じたものと考えるのが妥当である.しかし,そのために「其罪畢已」という文章を編み出したのは,羅什が『妙法華』訳出以前に『金剛般若経』を知っていたためと考えられる.

この「其罪畢已」という一節が,日本の日蓮に絶大な影響を与えた.日蓮宗の開祖である日蓮は,以前に念仏者・真言者であったため,「其罪畢已」の「罪」を過去の謗法罪と理解した上で,自らを常不軽と重ね合わせ,〈法華経の行者〉としての自覚を確立し,深めていった.

もし『妙法華』に「其罪畢已」の一節がなかったとしたら,日蓮は〈法華経の行者〉としての自覚を確立できず,その結果,『法華経』に向き合う姿勢を変えた可能性が高い.あるいは『法華経』信仰を捨てていた可能性まで考えられる.『開目抄』に見られる,「なぜ自分には諸天善神の加護がないのか」「自分は〈法華経の行者〉ではないのか」の解答の源は,「其罪畢已」以外には見出せないからである.

もし『妙法華』に「其罪畢已」の一節がなかったとしたら,中世以降今日に至る日本仏教は,現在とは大きく違った姿をしていたであろう.まさに,「大乗経典が外的世界を創出」(下田正弘)した好例である.『妙法華』に存するたった一個のフレーズ「其罪畢已」が,今日の日本の宗教界のみならず,社会の一側面を創出したのである.
目次1. The Aim of This Paper 1147
2. A Premise of This Study: The SP as the Prediction of All Sentient Beings’ Attaining Buddhahood 1148
3. Why Does Only the SPC2 Have the Phrase “Qizui biyi”? 1149
3.1. Two Kinds of Persecutors Expressed in SP 19 (Suzuki [2016]) 1149
3.2. Particularities of the SPC2 1149
3.3. At What Level Did the Phrase Corresponding to “Qizui biyi” Appear in the SP? 1150
3.4. For What Kind of Sin Did the Bodhisattva Sadāparibhūta Atone? 1150
4. Nichiren and Sadāparibhūta 1151
4.1. The Kaimokushō (Open Your Eyes to the Lotus Teaching) 1151
4.2. Nichiren’s Question and Its Solution Expressed in the Kaimokushō 1151
4.3. One Passage from the Vajracchedikā Prajñāpāramitā 1152
4.4. The VjPC1 and the SPC2 1153
4.5. Why Did Nichiren Consider the Sins Sadāparibhūta Committed as Slander of the SP in His Past Lives? 1153
5. Conclusion 1153
ISSN00194344 (P); 18840051 (E)
DOI10.4259/ibk.65.3_1147
點閱次數790
建檔日期2022.05.18










建議您使用 Chrome, Firefox, Safari(Mac) 瀏覽器能獲得較好的檢索效果,IE不支援本檢索系統。

提示訊息

您即將離開本網站,連結到,此資料庫或電子期刊所提供之全文資源,當遇有網域限制或需付費下載情形時,將可能無法呈現。

修正書目錯誤

請直接於下方表格內刪改修正,填寫完正確資訊後,點擊下方送出鍵即可。
(您的指正將交管理者處理並儘快更正)

序號
640394

查詢歷史
檢索欄位代碼說明
檢索策略瀏覽